中村ケンゴ × 山口裕美トークショー
特別ゲスト:平野雅彦
2015年1月18日 掛川市二の丸美術館
2015 年1 月18 日、中村ケンゴ展『モダン・ジャパニーズ・ジャパニーズ= スタイル・ペインティング1994-2014』開催中の静岡県掛川市二の丸美術館にて、作家自身によるギャラリートークが行われた。2007 年度より発足した、山口裕美プロデュース・NPO 法人掛川の現代美術研究会主催による「掛川現代アート茶会プロジェクト」に当初よりかかわった中村の画業20 年を振り返るこの展覧会と共に、7 年余に亘るプロジェクトで制作された、彼自身の作品(棗)を含む7種類の茶道具も同時に展示された。同プロジェクトにおいては、毎年1人の現代アーティストが職人と共にひとつの茶道具を制作し、それを使用した茶会が美術館隣の二の丸茶室で開催されてきた。
掛川アートプロジェクトと7つの茶道具
中村:僕が掛川に初めてお邪魔したのは、 2008 年、二の丸茶室で催された最初の「現代アート茶会」です。その際に、次回の茶会のための茶道具を作るお話を山口裕美さんからいただきまして、いま展示中の 棗(なつめ)を制作したんですね。その後、毎年催される茶会にもときどき出席しつつ、2013 年の富士山世界文化遺産登録記念のイベントのときにもお手伝いさせていただきました。年々掛川とのご縁が深まって、だんだん、抜けさせてもらえなくなって きた(笑)、みたいな感じです。
山口:もともとのお話をいたしますと、このプロジェクトは、私の本を読んでくださった「掛川の現代美術研究 会」( 以下「現美研」) の、山本和子さんから持ちかけられて立ち上げたものです。山本さんは、現美研のリーダーなのですけれども、彼女から相談があって、いろいろなことに巻き込 まれていく…わけです。
私が初めて掛川に来た頃は、神社や神道に対して興味があった時期でした。今でも神社めぐりは私のライフワークですが、とにかく日本のアートを世界に打ち出 していくためには、何か背骨というか、日本オリジナルの哲学がほしいと考えていたのです。それで、たとえば伊勢神宮が20年に1 度式年遷宮を行うような、ひとが何回生まれ死んでも神社そして神道は不変であるという、「永遠」というものを確保するためのオペレーションシステムといっ たものについての本を書いていた頃でした。
そんなときだったので、地元に面白い神社があったら紹介してということでお連れ頂いたのが事任(ことのまま)八幡宮だったのです。伺ったのは人のいない夕 暮れ時で、古風な印象でした。そこで、ご一緒だった掛川の方々も見たことがないという大事な掛け軸を見せて頂く事になったのですが、その時、居合わせた全 員で驚いたのです。というのは、その軸はこの八幡宮に伝わるお姫様の絵なのですが、ちょっと傷みも見られる中で、お姫様だけは鮮やかに残っていたんです。 さらに、その絵の中には月に雲がかかる景色があったのですが、それが今しがた見てきたばかりの現実の景色とおんなじで。そういう出会いの面白さもあって、 ちょっと運命的なものを感じまして、こことは長い付き合いになるかもしれないと思いましたね。
ところで、実はスペシャルゲストをお呼びしています。掛川現代アートプロジェクトで開催していたアート茶会に、2回目からずっと参加して下さった静岡大学の平野雅彦先生です。
平 野:ただ今ご紹介にあずかりました静岡大学の平野雅彦です。実は数年前まで、十数年間、掛川市のまちづくりの講師として呼ばれておりました。それで、この アート茶会の事も聞き及んでいました。2007年度の第1 回目(ミヤケマイさんの回) はどうしてもスケジュールが合わなかったのですが、2 回目のまさに本日のゲストのケンゴさんの時から一般客としてずっとお茶会に参加させてもらっています。まあ先程「被害者の会」なんて言葉がでてきました が、それでいうと私などは「被害者の会」のそのまた「被害者の会」とでもいいましょうか(笑)、もうずっとハマってしまいまして、会のたびに、自分のブロ グにお茶会の様子を書かせて頂いたりしております。アートや茶道について特段専門的な知識があるわけでありませんが、ずっと拝見してきたということで今日 は声をかけて頂いたのではと思っています。
山口:ありがとうございます。平野先生が、茶会後にご自身のウェブサイトで大変細かくその様子を リポートして下さっていて、実はこちらの現美研の皆さんも、「詳しくは平野先生のウェブサイトをご覧ください」(笑)と、ご案内しているくらいなのです。 私たちの茶会は、茶事の内で最も難しいとされる「夜咄(よばなし)」の体をとっておりまして、夜にこの二の丸茶室を使って、照明は全部消して蝋燭の火でと いうようなやり方をお願いしました。そして点心という簡単な食事、厳選された素晴らしく美味しい酒、そして最後にお菓子とお抹茶をというような、まあ非常 にハードルの高いことを現美研にはお願いしてしまったので本当に御苦労の連続だったと思います。ただ、お客様としてエンジョイする分には本当に楽しい。ケ ンゴさんには1 回目のミヤケさんの時に来ていただいて、楽しんでもらった後「来年、ケンゴ君だから。」と。そしたら「ええっー」って(笑)
平野:あの、だいたいそうなんですか、最初ふつうに招待されて、その席で次の…
中村:そう、突然指名されるんです。
山 口:「山口さん、掛川の茶会楽しいって言ってたけど、こういうことだったんですねえ~!」って言ってるところへ、「もしもし。来年だからね。」と。すると 「がぁぁぁぁん…」って。(笑)その反応がいちばんおもしろかったのは本田健さん(2012年・茶碗)でしたね。彼はお茶会でほんとに感激してくれたんで すけど、帰り際にそれを言ったら「はぁっ」と深いため息をついて、頭を抱えながら帰っていきました。
この(7年続いた)「夜の美術館と現代アート茶会」というのは、今でこそNPO法人ですが現美研がまだ任意団体だったころから、何回も話し合いを重ねてゼ ロから組み立てていったもので、その先に、現代美術のアーティストに道具をお願いしましょう、それぐらいの予算が組めますか、っていうところから始まって います。その時、私ひとつ申し上げました。お茶の道具をつくるアーティストは、いないわけではないんです。お茶が好きで、日本の伝統文化が好きで、道具を つくると言う方、結構いらっしゃる。かなり個性的な作品を作っておられる方もいるのですが、道具として使うよりも飾る作品になってしまっていることが、私 には不満でもあったんです。だから、職人さんとコラボレーションして頂き、「使える」ものにしましょうと、そこだけはこだわったんです。それから、職人さ んと現代美術のアーティストが一緒に仕事をしたときにどういうことがおこるのかということに興味があった。アーティストはほとんど個人プレイで、もう全部 自分でやってますので、ある種わがままというか、自己主張が強い…
中村:わがままっていうかね、現代美術作家って、基本的に、技術的には素人なんです。職人じゃないから。アイデアはあるんだけど、どうすればいいのかわからない。
山 口:一方、職人さんの方は、出来るか出来ないかがすぐ判る。それは無理でしょうと言うんだけれども実は挑戦するのもすごく好きなんです。ハードルが高い方 が職人さんは頑張って下さる、あるいはそれを面白がって下さる。アーティストと職人さんの競演が見たかったというのが正直なところですね。
中村:棗を作るにあたっては、茶道をほとんど知らないなかで正攻法でつくっても通用しないなと思って、ある種の工業製品的な、ポップとも言ってもいいのかもしれませんが、そういうものを作ったらどうだろうかと考えました。それで、アクリルを専門に扱っているデザイナーさんを紹介してもらったんですね。実は今日客席に来ていらっしゃるんですけど、俵藤ひでとさんです。僕の無理難題を受けて彼に作ってもらいました。
俵藤:僕は以前からアクリルで茶杓をつくってまして、それをウェブサイトで公開しているので、茶道具にある程度理解があるんじゃないかと、たぶんそういうお考えで、連絡を頂いたんだと思います。このプロジェクトがきっかけでケンゴさんやみなさんとお会いするようになったわけですが、職人って、自分たちの土俵で物を作ることが多いので、作ったことがないものは基本的に仕事にしづらいというか、まあ怖さもあるんですけど、僕はこの件に関してはお話を頂いた時ものすごく嬉しかったです。ただ僕もお茶道具は茶杓しか作ったことが無かったので、棗をつくる機会を得て、茶道具は「プロダクト」ではなくて「お道具」だから、そういう意味では茶道家の方にも相談しました。「平棗」をモチーフにしましたが、あとはどういう形で作るかっていう事は3 人で打ち合わせしながらすすめていきました。
山口:この棗は、削り出し…ですよね?
俵藤:そうです。「挽きモノ」といって、木のお椀なんかもそうですけど、かたまりをまあるく削ってえぐっていくっていう方法を、アクリルでやるんです。木よりも少しハードルが高いんですが、そのかわり極端に言うと100分の1 ミリ単位で切削が可能なので、自分が思い描いた図面があって、ケンゴさんのモチーフがきて、「スピーチバルーン・イン・ザ・ヒノマル」を棗の蓋の柄にしてもらった。ケンゴさんの作品のコンセプトになっているものを製作過程で表現できたらいいと思いまして、印刷じゃなくて、いちど赤く塗ったものを、サンドブラストという手法で吹き出しの絵を削り取るという、ちょっと手間をかけた方法にしました。そのへんをまたよく見ていただければ嬉しいです。
平野:そもそもお茶の世界におけるお道具の意匠というのは、やはりものすごく制約がありますよね。それが美と直結している。素人だから訊けてしまうのですが、普通の物を作るより結構高いハードルもあるでしょうし、あるいは背景には巨大な組織もありますし、そういうところに挑戦していくプレッシャーみたいなものはお2人にはなかったんでしょうか。
中村:「素人だから訊ける」って平野先生おっしゃいましたけど、まさに、全然知らないものだから逆にできてしまったと言うか。実際俵藤さんと一緒にお茶会に出てる時、俵藤さんが小声で「ケンゴさん、こうやって道具つくった人がお茶会に出て、一緒にお茶を愉しむってスッゴイことなんですよ、スゴイことが今起こってるんですよっ」とか言って(笑)、彼はお茶を知ってるものだからもう興奮してるわけです。僕はわかってないもんだから、「そ、そうなんだぁ~」みたいな感じで(笑)。ド素人というよりも無知だからできるというか、変なこともやらせていただいたというか…。でも何回か出席していると、確かにこれはスゴイことをやっているんだと、これはすごいプロジェクトなんだって事がだんだんわかってくるんですね。
平野:だんだんその世界を知っていくと、逆にプレッシャーに…(笑)
山口:私もお茶は、恥ずかしながらプロジェクトをスタートしてからお稽古を始めたので、まだ自分で正客(しょうきゃく)をもてなすようなところまでちゃんとできてないのですけど、逆に、日本の、土台になる背骨を探して日本のアーティストを世界に出そうという、夢は大きく持っているものですから、「知らない」からこその強気にプラスして、誰もやっていないものの方が挑戦のし甲斐があると思ったのは確かです。それと、掛川の、二の丸茶室がまだホントにほんわかした感じで運営しておられて、それが羨ましかったのもあります。当時、特に小間の方などは、年に数回しか使っていないということだったんです。東京のお稽古場の多くはもうほとんど電熱器を使っていて、炭をあつかうなんてお正月の初釡の時くらいっていう先生も多い。NHK でやっているような、待合で待って、合図があったら茶室ににじってはいって…なんていうことを、お稽古場ではほとんどできていないのが現実だと思うんです。そういう現状を見ると、私たちには失ってしまったものがいっぱいあるなあと思うんです。それから道具が、とにかく高額です。畠山美術館とか根津美術館なんかで見る会記にでてくる茶道具なんて、何千万から億単位ですから。お金をかければ本当に上等なおもてなしなのか?作家が、アーティストが、ここに一緒にいることの方が価値があるんじゃないか。もう死んでしまった人たちのものを、億単位だからと言って有難がる文化じゃなくて、生きている人の作品がいちばん良いのだ、っていう方へ持っていきたかったっていうのもありますね。
中村:そもそも利休がやっていたようお茶は、すごくアヴァンギャルドなものなので、むしろコンテンポラリーアートと親和性が高い可能性がありますね。
平野:そうですね。そのあと利休の高弟の(古田)織部が、またぐうっとこう、曲げて…
中村:めちゃくちゃ変なことになっていくわけです。
平野:めちゃくちゃ変なことをやっていくわけじゃないですか。そこで「傾(かぶ)く」がでてきて、歌舞伎ってものに繋がっていく。
中村:近代以後は「お稽古事」になってしまって、戦後はとくに、奥様方が着物や道具自慢をするようなイメージになってしまいますが、それこそ室町ぐらいまでさかのぼると、闘茶だとか、そういう、ならず者っぽいっていうのかな、元を辿ればヤンキー文化だったかもしれないわけです(笑)
平野:ところでケンゴさんの棗をお茶会で見せて頂いた時、横からアクリルに光が差し込んでいたんです。それで、抹茶ってこんなにきれいだったんだというのを改めて知ったんです。
中村:赤い蓋にグリーンの抹茶が入って、棗がイタリアの国旗に見えるよね、ってところから、「イタリアン茶会」ってコンセプトが浮かんで、茶会でワインを出すという…(笑)、こんなことしていいのか、みたいなことになってしまいましたが。
平野:しかもそこには「スピーチバルーン」じゃないですか。お茶会っていうのは静寂が支配しているようなところがあって、正客しか何かしゃべることを許されていないという約束ごともあったりしますが、でもみんな心の中でいっぱいなにかをつぶやいているわけです。道具だって、いっぱい何かつぶやいていそうですね。だから、スピーチバルーンが実は空中にいっぱいあるのに、視覚化できていないっていうのかな。みんなしゃべっているのに…っていう、そういうところを再認識させられたような気がしましたよ。
山口:まあ、誰が何回目に何を、というのは、それほどがっちり決めていたわけではなかったんですが、結果として後のほうでやって下さった方はかなり難易度が高くなっていったかもしれません。
平野:山口さん自身も(求める)難易度がどんどんあがっていったんじゃありませんか?
山口:初回のミヤケマイさんなんかは、ご自身の絵と(茶会の)作品が非常に近かったというか、軸先を今日いらしている竹廣(泰介)先生にお願いしましたけれども、ミヤケさん自身の本業からはそんなに離れていない。なのに2回目からものすごい無茶振りをしてて、名和晃平さん(風炉先屏風)から東泉一郎さん(茶杓)あたりになってくると、もうね、ある程度のことはやっちゃったからねーみたいな感じになってる。しかも茶杓って本当に小さいものですし、難易度はすごく高かったと思います。
平野:しかも、サイズが決まってますからね。畳何目とか。
東泉:僕は2011年のお茶会で発表した茶杓をつくらせていただいたんですけど、やっぱり前の年のお茶会にお邪魔して、そこで、まあ、指令を(笑)受けて。本当に困ったなと、悩みました。僕自身はお茶の事何にも知りませんし、素人なんですけれども、祖母や母がけっこうやっていて、遠目には見ていたので、詳しいことは分からなくても、幼心に残った記憶みたいなものはあったんです。そういうなかで、茶杓というのは一番小さいし、何よりも困ったのは、他の道具と違って茶杓ってお点前なさる方の手の延長なんですね。そういう意味では、他は道具といえども道具がひとつのインディペンデントな存在たり得るわけなんです。実際に、いざ茶杓というものに自分なりに向き合ってみると、どうにもやっぱり手の延長で、作法も知らずお点前もしない自分はどうしたらいいんだと。母や祖母が自分用の茶杓を自分で削ってたのは見ていて、他の道具はそれぞれの専門家がつくることが多いけれども、お茶杓は、お点前なさる方が、自分用の1 本として…
中村:東泉さん、かなり文句言われてますよこれ(笑) …なんで俺が茶杓なんだ、って。
東泉:(笑) 出来上がった茶杓を前にして、今までは、どういうふうにつくられたんですか、とか、どういうコンセプトで、とか、そういう質問に答えてきたんですけど、今ここでみなさんのお話を伺っていて、むしろ当時の自分の心持ちというか(笑)、そういうのがよみがえってきてしまいまして。
中村:トラウマだ。(笑)
東泉:そうなんです。どう作られたかっていうのはね、そこにあるモノがすでに語っていることだと思うんです。茶杓って、プロフェッショナルな誰かが作って売ったり使ってもらったりというよりも、使う本人が、「モノ作り」という意味ではたとえ素人だったとしても、自分のための1本っていうものを、竹っていう素朴でプリミティブな素材をただ曲げて削るだけでつくる、手数も少ない道具なんですよ。それを、誰が使うと言う想定なしに、ひとつの独立した存在としてお茶杓をつくるってことでジレンマに陥ってしまったわけです。それから、ブログやツィッターなんかで「茶道具をつくるかもしれない」ってちょっとつぶやいたりした時に、伝統文化を専門に扱っていらっしゃる評論家の方などから一部バッシングを受けて…。デザイナーがお茶とか日本の伝統文化っていうとすぐ舞い上がって、みたいなことをちょっと言われて(会場笑)。でも、あの、全然舞い上がってはいないわけで…
山口:おいしい物ごちそうしなきゃいけませんね。
東泉:でも、そういう、いちばん肌に近い所をやらせて頂いたのはとっても光栄なことでした。(本質から考えると)僕のやることはホントは何にもないんだよなー、でもじゃあどうしたらいいんだろう、っていう感じで始めて、結果的に木(ホオノキ)を使って作りました。
山口:7つの中で茶杓は一番大変だろうなと思っていたので、東泉さんぐらいの人じゃないとできないと考えていたんです。東泉さんの仕事は多岐にわたっていて、いろいろな事をなさっているので。
平野:あの、(茶杓を)手に取ったときのバランスというか、まあ今手の延長というお話がありましたけれどもまさに手そのものだともいえるような。東泉さんはサイエンティストでもあるわけですよね。
山口:ええ、そうですね。
東泉:茶杓について説明を求められると、「この茶杓は」というような、道具としての話をおもにしていたんですけれども、自分がデザインしたのは、茶杓の形よりも、それを使ってお点前される時の所作、それがどういう動きになるかって言うところだったと思います。それがあの櫂先(かいさき)の形であったり。自分が今まで見てきた茶杓の形は、こんな言い方をしていいのかわかりませんが、わりとこう、「耳かき」型なんです。だからそれを使う時は皆さん掬い上げるような動作をなさる。そうではなくてもっとスッという感じの、(流れるような)動作を導きだしたかったんです。それであの櫂先になった。道具が逆に人の動きを規定していくというのか、そういうことをわりと意識してました。
山口:茶杓入れを作ってくださったJUNGJUNG さん(竹村旬子さん)も茶杓を邪魔せず、かつ受け止める形の、非常に手の込んだものですしね。
平野:東泉さんの時のお茶会を思い出しますと、もういきなり床の間にロケットですよ。
中村:にじって小間入っていくと、種子島の宇宙センターのロケット発射シーンが掛け軸になっててね。「うわ!なんだこの小間は!?」って感じで。
山口:ところで平野先生、2回め以降をすべてご覧になって、印象に残っているのはどんなことですか?
平野:やっぱり、「色」っていうことでは、ケンゴさんの棗の色がものすごく印象に残っていますね。それから、東泉さんの茶杓のネーミングにもシビレましたねえ。『火または炎』『風または流れ』っていう、ねえ。その間をたゆたっている感覚っていうのか、そこをネーミングでも掬い上げてくるっていうのがなんともニクイ。
中村:僕が印象に残っているのは、昨年の最後の茶会ですね。城の形をした釡を見た時、「なんじゃこりゃあ!」と思いましたね。しかもこのクオリティはなんだ!そして城の屋根が開いてお湯が出てくるという…(笑)
山口:こづえさんの場合は、すごくはっきりしていて、「やっぱり~、お城にしようかな~」なんておっしゃっていてね。掛川でいろいろ見て回って、一番印象に残ったのがお城、天守閣とのことでした。お城がテーマなんだなとは思っていたのですが、まさかそのままの形とは思ってなかった(爆笑)。色はシルバーが良いということになりました。本当は銀で作りたかったわけなんです。でもそんな予算はないので、アルミでということになったのですが、そこから先が結構大変でした。あの形をアルミで作れる人を探すのがね。最初に俵藤さんに相談して、いろいろな方に繋いでいただいて、相原健作さんという、東京芸術大学学長の宮田先生の愛弟子にお願いすることが出来ました。相原さんもまた、素晴らしい技術を持っているアーティストだったわけです。で、「苦労したけど楽しかった」という一言をいただいて、胸をなでおろしました。
平野:そうですね。やっぱり苦労が多ければ多いほどそれが一転、最後は楽しみになって返ってくるわけですからね。あの時は、お茶会のあと、外へ出た時に見たライトアップされたお城とすぐ(イメージが)重なって。露地を歩いてきて後ろを振り返るとお城が見えるんですけど、ああ、最後はここだったんだ、という…
山口:本当に上手く修めていただいたと思います。さすがひびのこづえさんでしたね。
平野:本田さんもよかったですね。
山口:「もう、二度とイヤ」って言われました(爆笑)。
平野:茶碗って、お茶の中でかなり中心を占めるお道具じゃないですか。
山口:ええ。本田さんとは古い付き合いで、彼すごく繊細な絵を描いてるんだけど、実は面白くて愉快な方なんですよ。でも興味がないことははっきり断るタイプだから、やってもいいといったらホントにやってくれるだろうと、まあ賭けに出たんです。それで、土屋公雄さん(水指(みずさし)2011年)の時にわざわざ遠野から来て頂いて、「来年は本田さんでお茶碗だから」と言ったらちょっと落ち込んじゃって。けれども彼の奥様は本田恵美さんという陶芸家なんですよ。だからご夫婦のコンビネーションでなんとか出来るだろうとは思っていました。本田さんが時々描きたくなって描く油絵の中に、動物の足跡シリーズというのがあるので、それをやったらどうかと提案してみたのですが、そこから先が大変だったようです。特に最後の「熊」…
中村:穴があいてる茶碗ですね。
山口:そう、器に穴をあけるっていうのは非常に勇気がいったようですが、最終的には「やってみたら意外にいいんです」と電話で聞きました。
平野:あとの2つは兎と狐でしたよね。3つで揃いになっているんですね。普段からすごく観察されているんでしょうかね、山の様子を。動物行動学じゃないけど、足跡のことなんかすごく研究されているような感じで、動物たちが茶碗の中を移動している。
山口:そうですね。本田健さんは山口県の出身ですが、遠野に移り住んでから、とても丁寧な暮らし方をしておられる。例えば生ゴミを減らしたり、野生動物のためにとっておいたりだとか。200年前の古民家を改装して住んでおられて、何度かお邪魔したことがあるんですが、羨ましい暮らしです。
平野:あの小さな穴のあいた『熊』っていう黒茶碗ね、あれそのものが熊だとも言えるけど、中に入った自分が熊になった気持ちにもなれる。春になって…まさに地面のなかでエネルギーが「はる」っていうのが春の語源だと思うんですけど、そんなときに穴から光が木のうろに差し込んでくる(のを熊になった自分が感じている)…っていうような感覚を、まさに具現化した素晴らしい作品だと思います。
山口:そうですね。私は三つ揃えで本当に良かったと思っています。有難いのは、7つのお道具を作ってくださったアーティストの皆さんが、「お茶」を好きになって下さったし、掛川のことも大好きになって下さったことなんです。名和(晃平)さんも年末にお会いしたとき「掛川、僕も行きたいんですよね」と言ってましたし、土屋(公雄)さんも「なんだか時々新幹線で『掛川』って聞くと、降りようかな―なんて気になっちゃうんだよねえ」(笑)なんて言って下さるので、本当にありがたいなと思います。
モダン・ジャパニーズ・ジャパニーズ= スタイル・ペインティング
山口:今回のケンゴさんの展覧会では、お気づきの方もおいでになると思いますが、二の丸美術館のこの展示室の空間がいつもとだいぶ違うと思うんです。展示で苦労したところなどはありますか?
中村:僕は基本的にモダニストというか、やっぱりホワイトキューブに展示したいということで。ピクチャーレールを使うのはやめて、こちら側もガラスケースだったんですけど、全部塞ぎたいと言って壁を立ててもらいました。照明も全部出して、最大の照度でとお願いしたり。
山口:ところで、私、年末に来た時、初めて天井がアールだったことに気付きました。
中村:教会みたいな建築なんですよね。僕は事前に展示室をチェックしたときに、この壁面に「コンポジション・トウキョウ」を展示しようというイメージがすぐに浮かんだんです。
山口:そうだったんですね。こういう風に古い作品から最新作まで並べて展示というのは、失礼ながら作家が亡くなったあとにはよく見受けますが、普段はいつも新作で展覧会をするわけだから、こういう形で順を追ってケンゴさんの作品を観ることはありそうで、ない、ことですよね。
中村:そうですね。ちょうど去年で活動し始めてから20年になるんですが、こういう機会をいただいて本当に感謝しています。それにしてもこれまでの様々なシリーズの作品を並べて見ていると、ポスターを作ったときも感じたんですが、一体誰と誰のグループ展なんだろうっていうくらい全然バラバラな表現ですよね。自分がほんと、分裂しているというか、そういうことが改めてわかりました。同じような傾向の作品をどんどん洗練させていくタイプの作家もいますが…。
山口:いや、むしろ観ている側は逆ですね。ブレてないなって思う、私は。…ただ、ウマくなっている感じはする。
中村:それはしょうがないです(笑)。やっぱり作品を作り続けていると、それはどうしてもね、洗練されてしまうんです。例えばミュージシャンに対して、「やっぱファーストアルバムがいちばんよかったなあ」とかって僕たち言ったりするじゃないですか。だけどアーティストは成長し続けていて、常に変わり続けている。そして新しいものを作りたいと思っているですね。でもファンは「あの頃」の曲を求めてしまうっていうことがありますよね。僕としてはやっぱり常に新しいものを作りたいし、一番新しいものが自分にとって一番良い作品だと信じたいんですよね。
手塚治虫的考察
山口:実は、平野先生とケンゴさんには意外な共通点があるんです。「手塚治虫好き」っていう。
平野:そうですね。私は子供の頃から手塚漫画一辺倒できましたので。いろんな手塚漫画、手塚グッズを集めました。ある美術館に最終的には寄贈することになったんですけど、新聞記者にその寄贈品が何点くらいあるのか聞かれて、「3,500くらいですかねー」なんて適当に答えたんです。あとでそこの学芸員が数えたら5,800だったそうです。
山口:凄い!
平野:それだけたまったんです。改めて、ケンゴさんの作品を拝見すると、モチーフを自分なりに解釈しなおして作品をつくっていらっしゃるわけですよね。この、『自分以外』というタイトルなんかも、まあ「自分」という言葉そのものが面白いと思うのは、「自分」って自らを分ける、って書くんだけど、外と私をきちっと分けると自分自身が分かる、ってことですよね。外側にいる一人ひとりってこういう群集にもなるんだけれども、一人ひとりの動きなどというものをもう一度見直すと、やっぱりそこには物語があって個性があるんだなというところをあえてこういうシルエットで表現されている。あえて伏せるとわかる。想像するんです。
中村:そうですね。よく見ると一人一人…同じようなワンルームマンションでも実は一人一人の生活があるんですよね。
平野:つい探してしまいますね、自分の学生時代はこんな部屋じゃなかったか、みたいな(笑)。
中村:そうですね。あと、この作品ついて、絵画的な解釈という事で考えると、僕は単純に手塚治虫のマンガが好きというだけで引用しているわけではないんです。彼はものすごい数の作品を描いているのでどんどんフォルムが洗練されて、まさにシルエットだけで手塚治虫だってわかるまでになっている。あまりにも線が洗練されて、ある意味自動化されているがために、バラバラにしても非常にバランスのいい抽象画が描ける。形式的な意味でも抽象画になりやすい線を持っているっていうことが、絵画を作る構造の上でも有効だということなんですね。
平野:これすごく一人ひとり動きがありますね。これは講談社の手塚治虫全集ですと全400巻が出てますけど、その中から捜すの大変じゃなかったですか?
中村:ぼくはこれ、読みながら全部付箋を入れていって、アシスタントの人にこれ全部イラストレーターでなぞって下さいって発注して、それをコンピューター上で構成していくという風に作っています。
平野:この、青色の『自分以外』という作品は、なにか特殊な素材という感じがしますが?…東泉さんの茶会の時のように、ブラックライトがあたって浮かび上がるような印象があります。
中村:今回展示されている作品は、すべて和紙の上に日本画の顔料で描かれています。描かれているのはこんなモチーフですが技法自体は普通の日本画の技法です。この、青色の『自分以外』は多分、背景の絵の具と、上から描かれている青い絵の具の粒子の大きさや粒度が違うので、おそらく光の反射率の違いがああいう効果を生んでるんじゃないかなと思います。
平野:あの、ケンゴさんとお話ししたり、あるいは作品を拝見していてもそうなんですが、ケンゴさんの言語感覚にはいつもなかなか鋭いものがあると感じます。スピーチバルーンのように言葉というものを引っ張り込んできたり、いわゆる顔文字といったものを作品にしていく。顔文字って、エモーション(感情)とアイコン(記号、象徴)ですよね。こういうところがなかなか…
中村:エモーション(Emotion)とアイコン(Icon)をあわせてエモティコン(Emoticon)という言葉がもう英語でできてるんですよね。
平野:ええ、そういうところをパッと作品にできるところであるとか、タイトルを『心文一致』とするような…
中村:「言文一致」ならぬ「心文一致」。
平野:そういう言語感覚がすごく鋭い。
山口:手塚治虫さんといえば大巨匠だし、マンガ界の大事な人ですけれども、たとえばライオンキング問題で非常に面白い結末を迎えたことに見られるような懐の深さ、あるいは日本発のオリジナリティ、それにケンゴさんが常々言っている21 世紀の日本に住む私たちがコンテンポラリーアート――英語のcontemporary artあるいは「」つきの「現代美術」でもいいんだけど――というものに取り組むこと、そういったことについてはどうなんですか?
中村:手塚治虫さんのフォルムというのは、基本的にディズニーの影響を非常に強く受けているということを皆さんご存知だと思います。そうしたアメリカの文化に強く影響を受けている手塚先生ですけれども、戦争中には大阪で米軍の空襲を受けて死にかけているわけです。日本はアメリカに原爆を落とされたりして大変な目に遭ったけど、でもぼくらの生活はアメリカナイズされてもいるわけで…。そういうことも踏まえて、『自分以外』っていうタイトルもそうなんですが、自分は日本人で、いわゆるアーティストっていう西洋で生まれた概念の仕事をするっていう時のアンビバレントな感情、葛藤みたいなものを解決するのは難しいので、むしろ葛藤自体を作品にすればいいんじゃないかっていうことが、自分の作品のスタイルになっているのかなという気がします。
山口:それはアーティスト一人一人にとっての問題でもあるし、私のような仕事をしている人間にとっては、日本の現代アートがなぜ世界に出て行けないのかという問題と実は同じ根っこを持っていて…
中村:今回のこの展覧会のタイトル自体もそうした問題が表されています。
山口:その問題は非常に大きな壁でもあるけれど、何か、どこかで解決できるようなものがきっとあるはずだと、私は楽観的なものですから思っていて、これからの自分の仕事はそういうことをやっていこうと思っています。
中村:僕はむしろその問題自体がある種の可能性なのかなとも思うんですね。日本は翻訳文化ですよね。イギリスの人が日本人に、「日本人はいいですね、シェイクスピアをどんな風に訳してもいいんですから」と言ったという話を聞いたことがあります。「あなたたちの日本語の感覚で、自由に自分たちの翻訳ができる。これはすばらしいことだ」と。日本は極東の一番端っこにありますけれども、中国からアメリカからヨーロッパからインドから、仏教もそうですが全部取り込んでいる。でも全部自分のスタイルに変えてしまう。その、スタイルの取り込み方にオリジナリティがあるんじゃないかという考えを持ってもいいんじゃないかって思います。
平野:そっくりそのまま取り込まないんですよね。何かしらそこに編集を加えて、変えていきながら見せていくっていうことをしてきましたね。
山口:ある意味では日本人は感覚的にわがままなのかもしれない。いいと思うものを、より自分に合うように変えてしまう。それでいくと、ネガティブな要素と思われているものをポジティブに考えてそれを武器にするような、発想の転換こそが大事だと思います。ちょっと強引かもしれませんがその意味で言うと、たとえば二の丸美術館は小さな美術館だけれどもその小ささを逆手にとってやれることがたくさんあるはすだし、掛川駅は新幹線のこだましか停まらないからこそできることがある。
中村:木造駅舎を残したことっていいなと思います。
山口:そうですね、そういう逆手の取り方というか、そういうことにはまだまだ可能性があると思います。
かわいい茶道具には旅をさせよ
中村:掛川アートプロジェクトを通して、特にお茶会で感じたことなのですが、アートで地域おこしというのが今すごく流行っていますよね。でも、そういうことになった時の、行政や役所の対応っていうのは、どうしても浅く広くになりがちです。でも、浅く広くやっても結局誰にも伝わらないんですよ。動員だけを問題にしたら一瞬の祭りでいいわけですが、それだと一過性のものにしかならない。文化として定着しないわけです。でもこのお茶会を開くというアイデアは、ごく少ない人数なんですけど、非常に濃い感動がある。そして参加した人たち一人一人が伝えていく感動の深さっていうのは、薄く広くやったときよりもずっと大きな価値があると思うんですね。
山口:ありがとうございます。
平野:ケンゴさんのお茶会に参加した時なんて、12席なんですよ。これコストで考えたらどうなっちゃうんだろうって話なんだけど、でももうコストだけで考えるのやめませんかっていうことなんですよね。
山口:掛川でしかできないことだったわけなんですよ。みんなで手作りして頑張るというね。特に最初の頃なんか、バックオフィスはすごく大変でした。お客様にはそんなこと微塵も見せないんだけれども、だからこそ参加してくださった方には大変好評だったのだと思います。
中村:しかも静岡県外から、東京やいろいろな場所からお茶会に出るためだけにたくさんの方が来てくださいましたから。
山口:お友達をお連れ下さった方が、そのお友達に「ここのお茶会は緊張感はいらないのよ、しゃべっていいのよ」なんておっしゃってて、そういうこともありがたい一面だったと思います。
平野:室町時代に、茶の文化が体系化されていくのに伴って、阿弥(あみ)っていう人たちが出できたわけですね。阿弥というのはそれぞれの専門家ですね。それぞれの専門家集団みたいなものが立ち上がってきて、応仁の乱を経て桃山(文化)につながっていくという歴史的背景がありますが、掛川の皆さんには、阿弥について研究して、皆さん自身がそのそれぞれの「阿弥」になっていっていただきたい、と。そのことによって今回揃った茶道具がもっともっと活きてくるのではないかなと思います。
山口:そうですね、そういうふうに、うまく回転していければいいなとは思うんです。あと、お茶道具というのはコンパクトだから、箱に入れて車にでも積んで持ち運びができるわけです。だから、掛川に収まらずいろいろなところに出向いていけばいいんじゃないかなと思います。貸し出したりだとかね。で、茶道具が旅をして、帰ってきたら言ってきた場所の地図にピンでも立てて、まだこの県は行ってないなというような、そういう楽しみ方をして頂けたら道具は本望であろうと思います。そして、道具は壊れるものだから、壊れたらまた修復する、そういうタフネスを持つ。壊れることを恐れてびくびくするんじゃなくて、壊れたら直せばいいくらいの割り切り方でおやりになったらいいんじゃないかなと思います。ただ、世界にひとつしかありませんので、アーティストの活躍によっては、値段が高騰してしまうということもあるでしょう。その時はその時、仕方がないゴメンネということでオークションに出して売って(笑)、二の丸美術館パート2を建てればいい。
平野:それまでは使っていただいて、と。
山口:それでいいじゃないですか。有難がって飾っておくだけだったら朽ちていくだけですから。そんなのもったいない。
中村:まあ、美術館ってよく死蔵しますから。
山口:そう、死蔵こそもったいない。使えばいいと思う。
平野:300年ほど前に売茶翁(ばいさおう)って人がいて、お茶を振舞って歩いていた。それを想起します。
山口:そう、だからそういう意味でもあまり後生大事にするんじゃなく、壊れたから直して、ってたとえば俵藤さんの所へ持って行って下さるような形のほうが私はいいと思う。
平野:まあ、日本には金接ぎの手法をはじめすばらしい技術もあるわけですから。
山口:茶道具の面白さというのはそういうものだと思うので、今は二の丸美術館に寄託しておりますけれども、貸し出したりしてどんどん使っていけばよいのではと思います。
そろそろ時間が迫ってきました。お2人から、茶道具も含めてこの展覧会の見方や、見た人にどんなふうに発信していってほしいかなど、感想も含めて何かありましたらお願いします。
中村:今回、7つの茶道具が揃っているのを見ながら、すばらしいプロジェクトに参加させていただいたんだなあと、あらためて感動しました。それから、この二の丸美術館、掛川に来るたびにコレクション展示を見せていただいていたんですが、こうして自分の個展を開催するにあたって、こんなモダンな空間になるんだということを実感したので、今後、ここで若いアーティストがどんどん発表する機会が増えたら嬉しいですね。ここにある数々の近世の逸品と現代が繋がっていけば素晴らしいことだと思います。
平野:先ほどおっしゃっていたように、ここは小さな美術館なので、作品一点一点ときちんと向き合えるんです。その良さを、もっと皆に活かしてもらう、そういう必要があるだろうなと思います。実は今日、最初は上のロビーでトークすることになっていたんです。それを、この会場(展示室内)に臨機応変に変更した。その場の様子を見て、山口さん、ケンゴさんのおふたりが提案し、学芸員が理解して、こういったセッティングになった。そういうことが、できるんです。これは非常に贅沢なことで、海外ではあるかもしれませんがこういうことって実は案外むずかしいんです。そこを、ひょいと越えられる、そういう感覚とか行動は、まさにモバイルな茶道具の機能にもつながっていくでしょう。とにかくいろんなことに挑戦できる、そんな美術館であってほしいと思います。美術館とは、そもそも既成概念に挑戦する場ですからね。
山口:ありがとうございます。最後に一言だけ申し上げたいんですが、美術館とか、公共の施設というのは、まあ、大変なことが多いと思います。それから美術館を評価するときに、入場者数とかそういうことで語られることが多いと思うんです。でも経験上ハッキリ申し上げますが、人の数なんてどうでもいいんです。ただ、そこで起こったことがいい思い出として残る、そういうことの方がよほど大事だと思っています。その意味で、平野先生がお茶会をちゃんと目撃していて下さったことはとても幸せなことだったと改めて思っています。ですから、皆様も、今日この二の丸美術館で中村ケンゴさんと一緒に作品を見たという思い出を是非持って帰っていただきたいと思います。今日は本当にありがとうございました。